スターの人生 スターの半生
有名人の人生・半生をピックアップ。その人生はどんなものだったのかをご紹介します。
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松本人志
松本人志は、1963年兵庫県尼崎市で生まれます。
幼い頃は、決して目立つような子供ではなく、小学校では登校拒否を繰り返していました。

ところが、小学校3年生のとき、そんな彼の性格を一変させる出来事があります。
それは、お笑いとの出会いでした。父親に連れられて、大阪にある劇場「なんば花月(かげつ)」に
生まれて初めて足を運んだときのことでした。
何百人という客がワーッと笑う状況に、彼は衝撃を受けます。
そして、その瞬間「絶対こんな仕事がしたい!」と強く思ったのです。

http://www.j-clearup.com/eyelash/

登校拒否賞でしたが、松本は、「早く大人になって、こんな世界におれたら、毎日楽しいやろうなぁ」。
そう思い始めるようになってから、登校拒否もなくなり、小学校高学年になるころには、友達と漫才をしてふざけあうほどになっていました。

そして、中学校に進学したとき、これからの運命をともにする一人の人物と出会います。
それが、のちに相方となる浜田雅功(はまだ・まさとし)です。
二人の息はぴったりと合い、遊び半分で漫才をしては、クラスメイトの笑いを誘っていたのです。

ところが、中学を卒業すると、二人は別々の高校に進学することにまりました。
しかも、浜田は三重県にある全寮制の厳しい学校でした。
会えるのは、夏休みに浜田が帰ってきたときくらいでした。
こうして、3年間はあっという間に過ぎ、いつの間にか、二人でお笑い芸人になるという夢も消えかけていたときでした。

卒業を間近に控えたある日、浜田が持ってきた1枚のチラシで、二人の運命は大きく動きます。
それは、吉本がお笑い芸人養成所の1期生を募集するという内容のチラシでした。
卒業後、就職先も決まっていた松本でしたが、
浜田の熱意と運命的なものを感じた彼は、お笑い芸人になることを決意します。
こうして、松本と浜田の二人は、お笑いの道を志すことになったのです。

http://www.ikumou007.com

相方の浜田と中学校で出会い、高校卒業後、本格的に二人でお笑い芸人への道を歩み始めた、松本人志でした
二人が門を叩いたのは、吉本が運営するお笑い芸人養成所でした。
記念すべき第一期生として入学した二人は、いきなり他の生徒より一歩リードします。
それは、コンビとして入ってきたのは、浜田と松本の二人だけで、ほかの生徒は、養成所で相方を決めていたからです。

コンビ名をダウンタウンに決めた二人の息はぴったりで、生徒を前にネタを披露する初舞台では、大成功。
さらに、入学してからわずか4ヶ月で出場した漫才コンクールでほかのプロをさしおいて、優勝してしまいました

「やっぱり、俺らは天才やな!」そう確信した二人は、自信満々で、憧れの「なんば花月」で初舞台をふみます。
ところが、これが大失敗。
お客さんに全くうけなかったどころか、大きな舞台に立つのが初めてで、全く声もでていなかったのです。

ここからが、二人の長い長いトンネル時代の始まりでした。
いくらステージに立っても、全く受けない日々が3年も続きます。
その間、同期の芸人たちは、どんどんチャンスを物にしていきます。
「このまま、ずっと売れないかもしれない」。
そんな思いが脳裏をかすめます。
しかし、彼にはどんなときも揺らがない一つの信念がありました。
それは、「自分が一番面白い!」ということ。

こうして自分の信念を貫き通していた彼らは、
ようやく、一つのチャンスを掴みます。
それは、大阪のラジオ番組のレギュラー。
さらに、テレビでは深夜番組「今夜はねむれナイト」にも出演し、大阪の若者の間で、徐々に人気が高まっていったのです。
どんなときも「自分が一番おもしろい!」という信念を貫き、大阪の若者のあいだで徐々に人気を獲得していった、ダウンタウンの松本人志。

ここから、浜田と松本の快進撃が始まりました
初めて担当したラジオのレギュラー番組では、フリートークの技術を磨き、テレビの深夜番組「ねむれナイト」では、毎週コントを披露し、
今の芸風の基礎を築いていきます。
そして、その一つひとつが成功するのに比例して、ダウンタウンの人気も、うなぎのぼりに上昇していったのです。

http://www.j-clearup.com/eyelash/

そんなとき、彼らにさらなる追い風が吹きます。
それは、若いお笑いファン向けの劇場「心斎橋筋二丁目劇場」のオープン。
二丁目劇場の周りには、ダウンタウンのファンがドッと押し寄せパニックになるほどの人気になっていました。
さらに、それと時を同じくしてダウンタウンがメインを務める初めての帯番組「4時ですよ~だ」がスタート。
またまたこの番組が大ヒットし、若者だけでなく幅広い世代から支持を得て、大阪のお茶の間にも浸透していったのです。

こうして、文字通り大阪で天下をとったダウンタウンは、いよいよ万を辞して東京進出をはかります。

ところが、意気揚々と東京に挑んだ浜田とは対照的に、それまで大阪でナンバーワン芸人の名をほしいままにしていた彼にとって、
東京で一からスタートすることには大きな不安を感じていました。

しかし、すでに東京で人気を博していたウッチャンナンチャンとの共演も手伝って、ダウンタウンも徐々に東京で受け入れられていったのです。
そして、あっという間に看板番組「ガキの使いやあらへんで!!」がスタート。
さらには「ごっつええ感じ」など、数々の人気番組では出演はもちろん、企画・構成なども担当し、
ダウンタウンは、唯一無二のスタイルを確立していったのです。

お笑い芸人として、全国的にお茶の間の人気者になった、
ダウンタウンの松本人志でしたがテレビやラジオでのフリートークを通して、自分の考えや思いを発信していた彼に、新たなチャンスがやってきます。

それは、週刊誌の連載。
そのころ彼の中には、実は、笑いをなしにして伝えたいことが山ほどありました。
しかし、芸人としてしゃべる以上、笑いが生まれないといけません。
そんなもどかしい思いを文字にして紙面で伝えることは、
彼にとっては新たな挑戦でもあったのです。

こうして、このコラムは2年にわたって連載され、1冊の本としてまとめられます。
タイトルを「遺書」と名づけられたこの本は、瞬く間にヒットし、気がつくと200万部を超えるベストセラーになっていたのです。
これをきっかけに、数々の著書をリリースし、そのたびに大きな反響を呼ぶことになったのです。
このほかにも、テレビやラジオで芸人として活躍する一方で、新たなコントを収録したビデオを発表したり、舞台を企画したりと、
常に革命をもたらしてきました。

そして、2007年、松本はさらに新たな世界に足を踏み入れます。
それは、映画の世界。
今までにない、オリジナリティあふれるエンターテインメントを作りたいという思いから、監督としてメガホンを取り、映画「大日本人」を完成させます。この作品は、今年、ハリウッドでリメイクされることが決定し、再び大きな話題になりました。

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