スターの人生 スターの半生
有名人の人生・半生をピックアップ。その人生はどんなものだったのかをご紹介します。
12 | 2012/01 | 02
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松本人志
松本人志は、1963年兵庫県尼崎市で生まれます。
幼い頃は、決して目立つような子供ではなく、小学校では登校拒否を繰り返していました。

ところが、小学校3年生のとき、そんな彼の性格を一変させる出来事があります。
それは、お笑いとの出会いでした。父親に連れられて、大阪にある劇場「なんば花月(かげつ)」に
生まれて初めて足を運んだときのことでした。
何百人という客がワーッと笑う状況に、彼は衝撃を受けます。
そして、その瞬間「絶対こんな仕事がしたい!」と強く思ったのです。

http://www.j-clearup.com/eyelash/

登校拒否賞でしたが、松本は、「早く大人になって、こんな世界におれたら、毎日楽しいやろうなぁ」。
そう思い始めるようになってから、登校拒否もなくなり、小学校高学年になるころには、友達と漫才をしてふざけあうほどになっていました。

そして、中学校に進学したとき、これからの運命をともにする一人の人物と出会います。
それが、のちに相方となる浜田雅功(はまだ・まさとし)です。
二人の息はぴったりと合い、遊び半分で漫才をしては、クラスメイトの笑いを誘っていたのです。

ところが、中学を卒業すると、二人は別々の高校に進学することにまりました。
しかも、浜田は三重県にある全寮制の厳しい学校でした。
会えるのは、夏休みに浜田が帰ってきたときくらいでした。
こうして、3年間はあっという間に過ぎ、いつの間にか、二人でお笑い芸人になるという夢も消えかけていたときでした。

卒業を間近に控えたある日、浜田が持ってきた1枚のチラシで、二人の運命は大きく動きます。
それは、吉本がお笑い芸人養成所の1期生を募集するという内容のチラシでした。
卒業後、就職先も決まっていた松本でしたが、
浜田の熱意と運命的なものを感じた彼は、お笑い芸人になることを決意します。
こうして、松本と浜田の二人は、お笑いの道を志すことになったのです。

http://www.ikumou007.com

相方の浜田と中学校で出会い、高校卒業後、本格的に二人でお笑い芸人への道を歩み始めた、松本人志でした
二人が門を叩いたのは、吉本が運営するお笑い芸人養成所でした。
記念すべき第一期生として入学した二人は、いきなり他の生徒より一歩リードします。
それは、コンビとして入ってきたのは、浜田と松本の二人だけで、ほかの生徒は、養成所で相方を決めていたからです。

コンビ名をダウンタウンに決めた二人の息はぴったりで、生徒を前にネタを披露する初舞台では、大成功。
さらに、入学してからわずか4ヶ月で出場した漫才コンクールでほかのプロをさしおいて、優勝してしまいました

「やっぱり、俺らは天才やな!」そう確信した二人は、自信満々で、憧れの「なんば花月」で初舞台をふみます。
ところが、これが大失敗。
お客さんに全くうけなかったどころか、大きな舞台に立つのが初めてで、全く声もでていなかったのです。

ここからが、二人の長い長いトンネル時代の始まりでした。
いくらステージに立っても、全く受けない日々が3年も続きます。
その間、同期の芸人たちは、どんどんチャンスを物にしていきます。
「このまま、ずっと売れないかもしれない」。
そんな思いが脳裏をかすめます。
しかし、彼にはどんなときも揺らがない一つの信念がありました。
それは、「自分が一番面白い!」ということ。

こうして自分の信念を貫き通していた彼らは、
ようやく、一つのチャンスを掴みます。
それは、大阪のラジオ番組のレギュラー。
さらに、テレビでは深夜番組「今夜はねむれナイト」にも出演し、大阪の若者の間で、徐々に人気が高まっていったのです。
どんなときも「自分が一番おもしろい!」という信念を貫き、大阪の若者のあいだで徐々に人気を獲得していった、ダウンタウンの松本人志。

ここから、浜田と松本の快進撃が始まりました
初めて担当したラジオのレギュラー番組では、フリートークの技術を磨き、テレビの深夜番組「ねむれナイト」では、毎週コントを披露し、
今の芸風の基礎を築いていきます。
そして、その一つひとつが成功するのに比例して、ダウンタウンの人気も、うなぎのぼりに上昇していったのです。

http://www.j-clearup.com/eyelash/

そんなとき、彼らにさらなる追い風が吹きます。
それは、若いお笑いファン向けの劇場「心斎橋筋二丁目劇場」のオープン。
二丁目劇場の周りには、ダウンタウンのファンがドッと押し寄せパニックになるほどの人気になっていました。
さらに、それと時を同じくしてダウンタウンがメインを務める初めての帯番組「4時ですよ~だ」がスタート。
またまたこの番組が大ヒットし、若者だけでなく幅広い世代から支持を得て、大阪のお茶の間にも浸透していったのです。

こうして、文字通り大阪で天下をとったダウンタウンは、いよいよ万を辞して東京進出をはかります。

ところが、意気揚々と東京に挑んだ浜田とは対照的に、それまで大阪でナンバーワン芸人の名をほしいままにしていた彼にとって、
東京で一からスタートすることには大きな不安を感じていました。

しかし、すでに東京で人気を博していたウッチャンナンチャンとの共演も手伝って、ダウンタウンも徐々に東京で受け入れられていったのです。
そして、あっという間に看板番組「ガキの使いやあらへんで!!」がスタート。
さらには「ごっつええ感じ」など、数々の人気番組では出演はもちろん、企画・構成なども担当し、
ダウンタウンは、唯一無二のスタイルを確立していったのです。

お笑い芸人として、全国的にお茶の間の人気者になった、
ダウンタウンの松本人志でしたがテレビやラジオでのフリートークを通して、自分の考えや思いを発信していた彼に、新たなチャンスがやってきます。

それは、週刊誌の連載。
そのころ彼の中には、実は、笑いをなしにして伝えたいことが山ほどありました。
しかし、芸人としてしゃべる以上、笑いが生まれないといけません。
そんなもどかしい思いを文字にして紙面で伝えることは、
彼にとっては新たな挑戦でもあったのです。

こうして、このコラムは2年にわたって連載され、1冊の本としてまとめられます。
タイトルを「遺書」と名づけられたこの本は、瞬く間にヒットし、気がつくと200万部を超えるベストセラーになっていたのです。
これをきっかけに、数々の著書をリリースし、そのたびに大きな反響を呼ぶことになったのです。
このほかにも、テレビやラジオで芸人として活躍する一方で、新たなコントを収録したビデオを発表したり、舞台を企画したりと、
常に革命をもたらしてきました。

そして、2007年、松本はさらに新たな世界に足を踏み入れます。
それは、映画の世界。
今までにない、オリジナリティあふれるエンターテインメントを作りたいという思いから、監督としてメガホンを取り、映画「大日本人」を完成させます。この作品は、今年、ハリウッドでリメイクされることが決定し、再び大きな話題になりました。


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児玉清

俳優、児玉清の人生。
アタックチャンスの司会者として有名でした。

児玉清は、学習院大学文学部ドイツ文学科に在籍し、卒業後、大学院への進学を決めていました。
しかし、大学の卒業式に列席していた時の事、式の途中で、母親の危篤を知らされました。

突然訪れた母親の死でした。高齢だった父親は仕事を引退しており、家族の財政は一気に危機状態になりました。
児玉はやむなく大学院への進学をあきらめ、就職する事となったのです。

http://www.apri-tia.com

大学卒業直後の4月に職を探そうとしても、そう簡単には見つかりません。
途方に暮れている所に1通のはがきが舞い込んできました。
それが、応募もしていない東宝映画、新人俳優募集の書類審査合格の知らせ。
実は、大学時代に演劇をしていた彼の事を
俳優志望だと勘違いしていた知人が勝手に応募していたのです。

突然の通知の理由は分かったものの、俳優になる気などなかった彼は、この試験を受ける気は全くありませんでした。
しかし、面接当日、奇妙なことが起こります。
明け方「試験に行きなさい」という母親の声が聞こえて、ハッと目が覚めたのです。

その声に導かれるように、とりあえず面接会場に向かいましたが、
指定時間を30分以上も過ぎていた上、水着審査用の水着も持っていませんでした。
仕方なく、パンツ姿で面接に挑んだ所、
元から受かる気のなかったリラックス状態が良かったのか、面接に合格。
結局、東映のニューフェイスとして俳優への道を歩み始めたのでした。

東宝映画のニューフェイスとして入社した児玉清。
3ヶ月間の研修を経て、いよいよ俳優の道を歩み始めます。
とはいえ、最初に巡ってくる仕事と言えばエキストラ役ばかりでした。

最初は、腰掛けのつもりだった事もあって、ほとんど仕事のない状態を楽しんでいましたが、
そんな彼にある転機となる出来事が訪れます。

それは、「鉄腕(てつわん)投手・稲生(いなお)物語」という映画のロケで、福岡の博多へ出張となり、若手のスター俳優と一緒に博多の街を出歩く事となった時の事。
2人が喫茶店に入り、コーヒーを飲み終わった時に、お店のウエイトレスが、スター俳優にサインを求めてきたのです。
スター俳優がスラスラとサインをした色紙を受け取ったウエイトレスは、「そちらの方も」と言って、児玉にもサインを求めてきました。
予期せぬ出来事に「エッ僕に?」と驚いた児玉清。
そのときスター俳優が発した言葉にさらにドキッとすることになりました。
「この人は雑魚だからサイン貰っても仕方がないよ」

確かに駆け出しでロクに役のなかった彼ですが、この言葉に猛烈に腹が立ってきます。
ポケットからコーヒー代をテーブルにドンと置いて、
「コーヒーは僕のおごりだ」というスター俳優に「コーヒー代くらい雑魚でも払えます」と彼の前から去ったのでした。

この時、彼の頭にあったのは、「もしこのまま俳優を辞めてしまったら、いつまでたっても、雑魚で終わってしまう、
こうなったら意地でも俳優に踏みとどまってぎゃふんと言わせてやる!」という思い。
腰掛けのつもりの俳優業に真剣に向き合う事を決心したのでした。

スター俳優から受けた侮辱をきっかけに、俳優の道を歩く事を決心した児玉清。
しかし、俳優として芽が出る事は決して簡単な事ではありませんでした。

無名の役をする事3年、松本清張原作の映画「黒い画集 ある遭難」などで、ようやく主要な役を当てられるようになった時、彼に大きな災厄が訪れます。
会社の重役とコネのある新人女優との交際を断った事で恨みを買い、「児玉清は結婚詐欺師だ」とあらぬ噂を立てられて、会社から一切売り出されなくなってしまったのです。会社の中で孤立無援になること、実に6年以上。

しかしそんな彼に、時代がチャンスを与えます。
それは、テレビドラマへの出演でした。
当時、テレビドラマはまだ生放送からビデオ録画に移り変わろうとしていた時期。
しかも、そのビデオもテープが編集できない状態で、最初から最後まで一度に撮影しないといけないというものでした。
1カットずつ撮影していく映画とは違い、一度のミスも許されないテレビドラマの現場。
しかしその事が、学生時代に演劇をしていた彼にとって大きくプラスに働いたのです。

もともと、カメラに向かって愛をささやくなどといった演技が苦手だった彼にとって、一連の流れで演じることができるテレビドラマは正に救いの神でした。
こうして、テレビの世界に活路を見出していった児玉清。
自分を売り出してくれる事もなく、
テレビに消極的な姿勢を見せていた映画会社を辞め、フリーの俳優として歩み始めたのでした。

映画からテレビの世界へ活動の場を移した事で、
次第に人気を得る事に成功した俳優、児玉清。

しかし、現在彼のイメージとして最も強いのは、
「パネルクイズ アタック25」の司会でしょう。
1975年にスタートしたこのクイズ番組で、彼は36年もの間、司会を続けました。
その活躍は次第に司会業が中心となり、90年代半ばからは俳優業からは遠ざかる日々が続いていました。

そんな彼が俳優として復活したのは、2001年に放送されたドラマ「HERO」での事。
「今さら脇役なんて」と、一度は断りますが、
当時マネジャーを務めていた長女から「絶対出演してほしい」と説得され、出演する事になったようです。
これ以降は、「美女か野獣」や「トップキャスター」などのドラマに出演し、
その存在感を発揮する事となったのです。

しかし、2002年、俳優としての復活のきっかけとなった長女が
胃がんのためにわずか36歳の若さで他界。
娘としてはもちろん、約20年もの間、
マネージャーとして自分を支えて来てくれた存在を失った事は、彼の心に消える事のない傷跡を残しました。

その後も大河ドラマ「龍馬伝」で、坂本龍馬の父親役を果たすなど、精力的に仕事を重ねていましたが、
2011年2月下旬、突然の体調不良を訴えました。
病院で検査したところ、長女と同じ胃がんが発覚。
入院生活を送る事となりますが、5月16日、77歳で、帰らぬ人となりました。

ビートたけし 北野武
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北野武は、1947年東京都足立区で4人兄弟の末っ子として生まれます。
実家はペンキ屋を営んでいて、
よく父に連れられてペンキ塗りの手伝いをしていました。

小学生の時には、作業着を着て


父親と一緒に仕事場へ向かう姿を友達にからかわれ、
恥ずかしい思いをしたことが何度もあったといいます。

暮らしは決して裕福ではありませんでしたが、
教育熱心な母親は、彼も含めて兄弟全員に参考書を買い与えて、
勉強をサポートします。

その母親の熱心さは、並大抵のものではありませんでした。
あるとき、一番末っ子だった彼も、
兄たちと同じように参考書を買い与えられます。
初めは、ピカピカの本が目新しく、
楽しんで勉強をしていましたが、
3日も経たないうちに、勉強に飽きてしまいます。

それを見た母親は、大激怒。
パンチの雨が降るほどの大目玉を食らったこともあったのです。

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そんな教育熱心な母親のおかげで、
彼の学校での成績は決して悪くなく、
母親の勧めで、明治大学工学部を受験します。
そして、みごと現役で大学合格を果たしたのです。

教育熱心な母親のおかげで、
明治大学工学部に現役で合格した、北野武。
しかし、彼はほどなくして大学を中退してしまいます。
それからというもの、彼は『風月堂』という喫茶店に一日中入りびたり、
合間に『ビレッジゲート』という新宿のジャズ喫茶のボーイとして働き始めます。

このころの彼は、夢も目標もなく、
「一生このままで終わるのか」という自問自答を繰り返す日々。
「一生をかけてやってみるような仕事をしたい」。
そう思っていた彼は、ある日突然、大きな目標を打ち立てます。

それは、「浅草へ行って芸人になる」こと。
特にきっかけもなく、思いつきで目標を定めてしまった彼は、
すぐ浅草へと向います。
芸人になりたい一心で、浅草フランス座へ飛び込み。
運よくそこで働かせてもらえることにはなりましたが、
彼に任された仕事はステージにでることではなく、エレベーターボーイ。
夢には、あまりにも遠いスタートでした。

しかし、エレベーターボーイを続けているうちに、ひとつのチャンスを掴みます。
エレベーターに乗ってきた座長の深見千三郎(ふかみ・せんざぶろう)に
いきなり弟子入り志願をしたのです。

最初は、まったく相手にされませんでしたが、
次第に気に入られ、あるとき無断で休んだ芸人の代役として
舞台に立つことを許されたのです。

その後、舞台の進行役に抜擢され、芸の厳しさを座長から教わりながら、
いつしか、彼の仕事場は、エレベーターの中から、
華やかなステージへの上へと変わっていったのです                               

浅草フランス座で、コメディアンとしての道を歩み始めた、北野武。
一人前の芸人になるために地道な下積み時代をすごしていた彼に、
ひとつのターニングポイントが訪れます。
それは、後に彼とお笑いコンビ「ツービート」として共に活動する、
ビートきよし、こと兼子二郎(かねこ・にろう)との出会い。

お互いにコンビの相方を探していた二人は、
すぐにコンビを結成します。
当初は、二郎(にろう)がネタを作ってボケを担当、
一方タケシが突っ込みを担当するというスタイルで活動しますが、
まったく売れません。

その頃、彼は名古屋の演芸場で「B&B」の漫才に衝撃を受けます。
島田洋七(ようしち)の言葉の連射攻撃を目の当たりにし
「普通のことをやっていては駄目だ!」と感じたのです。

そこで、これまで二郎(にろう)に任せていたネタ作りを自分で担当し、
コンビ名をツービートに改名します。
彼は、下ネタや放送禁止用語など、
それまでの漫才では不可能だったものをあえて取り入れます。

これが一躍注目されるきっかけとなり、
ついにツービートは、テレビデビューを飾ります。
時代は空前の漫才ブーム。
毒舌漫才を売り物に、「オレたちひょうきん族」などの人気番組を通して
一躍お茶の間の知名度を上げていったのです。

漫才コンビ「ツービート」のビートたけしとして、
一躍お茶の間の人気者になっていった、北野武。
数々のバラエティー番組に出演し、
国民的なお笑い芸人として人気を博します。
さらに彼の表現のフィールドは、舞台やテレビだけでなく、
スクリーンにも広がっていきます。

1989年に、映画監督デビュー作品『その男、凶暴につき』が公開。
一部の批評家からは、批判されることも多かったこの作品ですが、
その独特の世界観は、より多くの人々の心を捉え、批判する人たちを黙らせます。
こうして、彼の監督作品の評判は年々高まり、
1993年に公開した4作目の『ソナチネ』は初めて国際的に高い評価を受け、
一躍「世界のキタノ」としてその名が世界中に広まっていったのです。

しかし、その翌年のことでした。
彼は、大きなバイク事故を起こしてしまいます。
運よく、真っ暗な一本道の明かりの下に倒れていたため
車にひかれずに済み九死に一生を得ますが、
しばらくのあいだ、生死をさまよいます。
どうにか意識を取り戻した彼でしたが、顔面の一部が麻痺する大けがを負ってしまい、
長い間、リハビリに苦しむことになったのです。

その後、無事に復帰を果たした後も、彼は精力的に監督業に取り組みます。
1998年公開の映画『HANA-BI』で、ベネチア国際映画祭の金獅子賞を獲得するなど、
数々の国際的な賞を受賞。

こうして、ついに彼は、フランスの芸術文化勲章の最高章である
コマンドール章を授与されたのです。

自分の感性に忠実に生きることで、世界に認められていった北野武。
これからも、その独創性で数々の作品を生み出していってくれることでしょうね




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