スターの人生 スターの半生
有名人の人生・半生をピックアップ。その人生はどんなものだったのかをご紹介します。
09 | 2011/10 | 11
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澤穂希
健康維持を美肌維持に、やずやの養生青汁

ほまれ


澤穂希は、1978年に東京都の府中市で生まれます。
5歳から7歳の間は、父親の仕事の関係で、大阪の高槻市に住んでいました。
そのころ、1つ上の兄がクラブチームでサッカーを始めたため、
彼女も母に連れられて一緒に練習会場に行き、いつも見学をしていました。

そこでいつも、兄が楽しそうにボールを追う姿を見るうちに、
「自分も一緒に楽しくボールを蹴ってみたい!」と思うようになります。
すると、ある日のことでした。そのクラブチームの指導者が「一緒にボールを蹴ってみないか?」と彼女に声をかけてきたのです。

そして、生まれて初めて蹴ったボールは、コロコロと転がり見事ゴールが決まったのです。
そのシュートには、その場にいた誰もが驚き、同時に、この一球がサッカーを始めるきっかけになったのです。

それから、兄と一緒に週に1、2度練習に参加していましたが、格的にサッカーを始めたのは、
再び父の仕事の関係で東京に戻ってきた、小学2年の時でした。

府中市にある名門クラブに入団を試みますが、なかなか正式に入団できません。
当時は、女の子、しかもまだ小学2年の子が入団するのは異例中の異例だったのです。
しかし、諦めませんでした。
そして、そんな彼女の思いは、いつしか周囲の人の心を動かし、家族や多くの関係者の理解があり、やっと入団を許されたのです。

それからというもの、サッカー漬けの毎日が始まりました。
練習は週に5日。週末には試合があり、遠征にも出かけました。
学校の友達と遊べないことが寂しいこともありましたが、毎日サッカーができることが楽しくて仕方なかったのです。

しかし、地元のサッカーチームに、女の子はたったひとり。
男子にまざって、日々サッカーの練習に明け暮れていました。

小学校6年生になって間もなくのことでした。
チームの中心としてプレーしていた彼女にとって、思いもしない壁が立ちはだかります。
憧れていた「全日本少年サッカー大会」に、女子は出場できないというのです。
チームのスタッフや母親が力を尽くして、どうにか彼女が全国大会に出場できるように掛け合いますが、結局、そのルールは変わらず、泣く泣く出場を断念することになったのです。

「どうして、女に生まれたんだろう。男だったらよかったのに」。
やり場のない思いを抱えて、落ち込む日々が続きます。
そんな時、東京都内にある女子サッカーチームから、
大会で助っ人に入ってほしいとの依頼が舞い込みます。

最初はあまり乗り気ではなかったものの、母親の勧めもあり、それまでため込んでいた悔しさをサッカーボールに託し、見事優勝を果たします。



やっぱり、サッカーってたのしい!そう思えたこの出来事が、これから先もサッカーを続ける決め手になったのです。

中学に入学すると、日本一の女子サッカー強豪クラブ「ベレーザ」の一員としてプレーするために、その下の組織の門を叩きます。
ところが、そのずば抜けた実力を買われ、
いきなり中学1年で「ベレーザ」に入部することを許され、
さらには、15歳で日本代表デビューを飾り、
17歳の時にはアトランタオリンピックに出場を果たしたのです。

女子サッカー界では、異例の速さの15歳で日本代表デビューを果たし、
世界の舞台に立った、澤穂希ですが、女子サッカー選手のプレーできる環境は、決して恵まれたものではありませんでした。

日本の女子サッカーのトップリーグであるLリーグは、Jリーグとはちがい、実業団という色合いが濃く、選手の多くは企業で仕事をしながらプレーしていました。
また不況のあおりも受け、次々とクラブが廃部に追い込まれていきます。
そして、彼女が所属していた「ベレーザ」もその例外ではありませんでした。
彼女自身は、プロ契約を交わしていましたが、
経営状況の悪化から、シーズンの途中で契約打ち切りを伝えられたのです。

先の見えない不安に襲われ、途方に暮れていたところ、彼女のもとに願ってもない話が舞い込みます。
以前「ベレーザ」でプレーしていたアメリカ人選手から、アメリカでプレーしないかと誘われたのです。

悩んだ末、アメリカ行きを決意します。
最初は、言葉の壁や慣れない土地でのプレーでホームシックになることもありましたが、
それらの苦難を乗り越え、2000年に開幕したアメリカのプロリーグの舞台に立ったのです。

こうして、アメリカでの女子サッカー人気も後押しして、順調な滑り出しを見せたかに見えました。
ところが、その3年後、2003年のことでした。
突然、活動休止が発表されたのです。
こちらも、日本と同様に不況のあおりを受けて運営が立ち行かなくなったのが理由です。

ようやくアメリカでの生活にも慣れていた矢先の出来事でした。
チームの経営不振が原因でプロ契約を打ち切られ、アメリカのプロリーグでプレーしていた、澤穂希ですが、今度はリーグの活動休止が発表され、再び行き場を失ってしまいます。

翌年にはアテネオリンピックのアジア予選が控えているにもかかわらず、
所属チームがない状態では予選に出場すらできません。
最終的には、アメリカのリーグが復活するのを待とうと考えていたところでした。
すると、以前日本で所属していた「ベレーザ」からオファーがあり、
なんとか無事に移籍先が決定したのです。

これまで、どんな時も「日本代表に選ばれること」、
「海外のリーグで活躍すること」と、常に掲げた夢に挑んできました。
そんな彼女が、最後に掲げた夢がありました。
それは、「世界NO1の座」。

しかし、2008年までに3度のワールドカップと2度のオリンピックに出場し、
世界の舞台に立つたびに、世界の壁の高さを痛感します。
そこで彼女は「まず、アジアを制することが重要だ」と強く考えたのです。

こうして挑んだ、2008年の東アジア選手権。
彼女は、代表として念願の初タイトルを獲得したのです。
その結果、FIFAランキングでは過去最高の4位に浮上。
ワールドカップでの優勝も、夢ではなくなったのです。

凛と咲く なでしこジャパン30年目の歓喜と挑戦



そして、挑んだ今年7月に開催されたワールドカップドイツ大会。
次々と勝ち進み、最終戦。
決勝の対戦相手はかつて、自分がプレーした国、アメリカでした。
結果は、PK戦の末に勝利。日本サッカー史上初となるワールドカップ制覇を成し遂げました。

日本代表に選ばれ18年、常に夢に挑み続け、ついに世界NO1の座を勝ち取った、澤穂希。
逆境にも負けず、常に夢を持ち続けることの大切さを感じます。

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有吉弘行(猿岩石)

オレは絶対性格悪くない!



1974年、有吉弘行(ひろいき)は、広島県の熊野町で生まれます。
幼いころの彼は、毒舌キャラの今からは想像できないほど、
おとなしくて、素直な少年でした。
小柄で、クラスでも目立たなかった彼が、お笑い芸人への道を意識し始めたのは、
小学校4年生のときのことで、当時大人気だった、「ドリフ」や「ひょうきん族」
といったお笑い番組を、熱心に見始めたのがきっかけでした。

中学に入学すると、お笑い好きの熱はどんどん加熱していき、コント番組だけでなく、漫才にも興味を持ち始めます。
ビデオに録画したあらゆる番組を繰り返し見て、「オール阪神・巨人」や「ダウンタウン」の漫才を暗記して、クラスで披露するほどにまでなっていたのです。

そんなお笑い好きだった彼が高校3年生のとき、願ってもないチャンスが訪れます。
テレビ番組で、オール巨人師匠が弟子を募集していることを知ったのです。
有吉は、迷うことなく、誰にも内緒で応募します。すると、トントン拍子で話は進み、見事合格。

オール巨人の弟子として、高校卒業と同時に、
大阪へと向かった有吉弘行(ひろいき)は、憧れの人の下で芸人の道を歩み始め、希望でいっぱいでした。しかし、その夢はあっさりと絶たれてしまうことになります。

弟子入りしてからまもなく、同期の芸人とトラブルを起こしてしまい、
師匠にこっぴどく叱られた有吉。
次第に「また怒られるんじゃないか…」という恐怖感から萎縮してしまい、
なにをやってもうまくいきません。
ついには、弟子入りしてからわずか半年後、
「お前は、弟子には向いていない」と、破門されてしまったのです。

この出来事に落ち込み、広島の実家へ帰ることを余儀なくされた有吉でしたが、
そう簡単にお笑いへの夢をあきらめることはありませんでした。
地元のコンビニでアルバイト生活を始めながら、
彼は、小学生のころからの友人だった森脇和成(かずなり)に声をかけ、
地元の公民館を借りてお笑いライブを決行したのです。
しかし、結果は散々で、会場に集まったのは、30人ほどの友人達だったにも関わらず
笑い一つとることもできなかったのです。

ところがこの大失敗でへこたれるかに見えた彼でしたが、ますますお笑いに対する執念の火が燃え上がり、今度は大阪ではなく、東京へ行くことを決意。
森脇にコンビを組もうと持ちかけ、二つ返事でOKをもらい、『猿岩石』が結成されたのです

相方の森脇和成(かずなり)とともに、
成功を夢見て、広島から東京へ向かった有吉弘行(ひろいき)。
なんとか東京に着いたものの、仕事も、寝る場所すらも決まっていなかった彼らは、
東京ドーム周辺で野宿をしながら、東京生活をスタートさせます。
そして、この野宿生活が、後の彼らの運命を大きく動かすことになります。

住む場所を見つけ、お笑いライブや少しずつテレビに出演しながら、
修業を積んでいたある日のこと、番組の主旨をほとんど知らされないまま、撮影で香港へ行くことが決まります。
初の海外ロケに浮かれていた彼らでしたが、現地に到着してから企画の内容を聞いて一転、
暗黒の谷へと突き落とされます。

猿岩石日記〈Part1〉極限のアジア編―ユーラシア大陸横断ヒッチハイク (角川文庫)



それは、「進め!電波少年」という番組のなかで、香港からロンドンまで、ヒッチハイクでユーラシア大陸を横断するという企画だったのです。
彼らが選ばれた理由は、東京ドーム周辺で野宿をしていたから。
野宿の経験がたまたま番組プロデューサーの耳に入り、白羽の矢がたったのです。

突然の発表に戸惑う暇もなく、番組から手渡されたわずかなお金を握り締め、
有吉と森脇は、果てしなく危険旅へと出発しました。そして、旅の様子が、全国のお茶の間へと届けられたのです。

電波少年の企画で、ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断する猿岩石の有吉弘行(ひろいき)と森脇和成(かずなり)は二人が命がけで野宿をするなど、リアルさと予想のつかない展開が受けて、番組は爆発的な大ヒットします。
猿岩石の人気は、彼らの苦難とは裏腹に、うなぎ登りに上昇します。

そして出発から半年後、2人はついに、ユーラシア大陸を横断。
念願の帰国を果たした彼らを迎えたのは、多くのファンとマスコミたちでした。
彼らは、あまりの熱狂振りに最初は戸惑いを隠せませんでしたが、人気の波にのって、本の出版や、CDをリリースし、誰もが知る、人気お笑い芸人に上り詰めたのです。

ゴールデン☆ベスト ~白い雲のように~



しかし、彼らの人気は、長くは続きませんでした。
テレビ番組のおかげで人気者になりましたが、本当のお笑い芸人としては、まだまだ未熟だったのです。ついには、相方森脇との方向性のちがいによって、コンビを解散。
有吉は、ピン芸人として、人気を極めた頃には考えられないほど、
寂しい日々を過ごしていたのです。

ところが、有吉は、再び脚光を浴びることになります。
たまたま、テレビで共演した芸人に辛口のあだ名をつけたことが受け、
毒舌キャラとして、お茶の間に広く知られるようになります。

人気が低迷してもなお、あきらめることなく、お笑い芸人として生き続けた彼は、
一時の流行ではなく、本物の芸人へと成長を遂げたのかもしれません
芸能界を知り尽くした彼は、「嫌われない毒舌のすすめ」を出版しました。

浜田省吾

The Best of Shogo Hamada vol.3 The Last Weekend



浜田省吾は1952年、広島県竹原市で生まれました。
警察官だった父親の転勤の為、
幾度となく引越を繰り返す少年時代を送っています。
そんな環境の影響からか、浜田少年はあまり人と打ち解ける事のない少年時代を送ったようです。

そんな少年が音楽に目覚めたのは、7歳年上の姉が大きな役割を果たしました。
エルヴィス・プレスリーが好きだった姉の影響で、8歳の頃にはラジオから流れるアメリカンポップスを聴き始めていたのです。

そして、10歳のとき、ある衝撃が訪れます。「今まで自分が聞いていた音楽とは全く違う!」
そんな驚きの音が幼い彼の心を掴みます。広島の片田舎の少年がラジオからキャッチした曲、
それがビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」でした。

それからはビートルズにのめり込む日々が始まります。
母や姉の買う雑誌に少しでもビートルズの記事があれば全て切り抜き、
近所にビートルズのレコードを持っている人がいれば頼み込んで、
家の外から聴けるようにレコードをかけてもらった程・・・

初めて買ったレコードもビートルズでした。
中学一年生の時にお小遣いで買ったのは
「チケット・トゥ・ライド」。
ビートルズで音楽にのめり込んだ浜田省吾がレコードの次に手に入れたのは、当然ギターでした。
中学2年の時、姉が二十歳の誕生日プレゼントにと買ってもらったギターを
半ば奪い取るように自分の物にしてしまったのです。
この姉のギターを、ジョン・レノンが愛用していたものをまねて改造、
遂に、ギターを弾き始めたのです。

The History of Shogo Hamada―Since 1975





その後、高校時代には学生運動に影響を受けつつもバンドを結成。
野球部や詩の同人誌を作りなど、かなり活動的な高校時代を送ります。
その為か、勉強の方は、はかどりませんでした。
結局1年浪人して神奈川の大学へ進学する事になったのです。
そして、この大学時代に広島出身の仲間たちが集まって結成したのが、
後にプロデビューする事になるバンド、「愛奴(あいど)」でした。

今でこそシンガーソングライターとしてギターのイメージが強い浜田省吾ですが、
この時代の彼の担当はドラム。
そして愛奴の最初のプロとしてのステージは、
同郷の英雄、吉田拓郎のバックバンドとしてでした。

それまで、デパートの屋上くらいでしか演奏をしていなかったバンドが
いきなりの超満員の大ホールでの演奏となりました。
このバックバンドで積んだ経験を元に愛奴はデビュー、
ここから音楽人生が本格的にスタートしたのです。
1975年、浜田省吾22歳での事でした。
しかし、バンド活動の中で、浜田は次第に違和感を覚えるようになります。

元々、メンバーにドラムがいなかったからと始めたドラム、
決して上手いという訳でもありませんでした。
さらに全員が曲を書くというバンドメンバー達の音楽性の食い違い。
そして何より、曲を書く事に彼の関心は向いていったのです。
そしてアルバムデビューからわずか5ヶ月程で愛奴を脱退。
翌1976年、ソロデビューを果たすことになったのです。

しかし、そのデビューは決して華やかなものではありませんでした。
デビューアルバムの初回発注はわずか3000枚。
そして、彼の売れない時期は、実に4年、アルバム4枚を出しても鳴かず飛ばずの日々が続いたのでした。

そんな状態を打開したのはなんと「カップヌードル」。
CMタイアップの話が来たのです。今でこそ一流CMのイメージが強いカップヌードルですが、
当時はそれほどでもなく、あまり乗り気ではありませんでした。
しかし、その肩の力を抜いたのが幸いしたのか、
このCM曲「風を感じて」がヒットしたことにより、環境は一変します。
ソロデビューから4年、ようやく浜田省吾の音楽が世間に認められ始めた瞬間でした。

その後の彼の挑戦は周囲の驚きでした。それは1982年の武道館ライブ。

今でこそ武道館でデビューなどと言うバンドもありますが、
武道館といえばミュージシャンの最高到達点とも言える場所。
そんな所に、ヒット曲と言えば「風を感じて」ただ1曲、
地方のライブに至っては満員にならない事もあった彼の挑戦に注目が集まりました。

しかし、レコードのセールスが伸び悩みながらも、
着実にライブを重ね、その支持を重ね、チケットは即日完売という結果となったのです。

これを機に、初の野外イベント、核兵器反対や、チャリティーのイベントなどにも出演。
その活動を広げつつ1986年にリリースしたアルバム「J.BOY」で
ついにチャート1位を記録したのでした。

J.BOY





ソロデビューから10年、メディアでの露出が極端に少なく、あくまで音楽だけで挑戦を続けて来た男の長い道のりを経て遂に到達した頂点でした。

そして、2006年には、ソロデビュー30周年を迎えた浜田省吾。
初めてとなるベストアルバムをリリースし、2年間、全国53カ所、87公演というホールツアーを敢行。今なお、アルバムリリースとライブを中心とした活動で、多くの人の心をつかんでいます



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