スターの人生 スターの半生
有名人の人生・半生をピックアップ。その人生はどんなものだったのかをご紹介します。
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緒方孝一 広島カープ
カープひとすじ23年間の現役生活を引退したプロ野球選手・緒方孝市(おがた・こういち)

緒方孝市は、1968年12月25日、クリスマスの日に、
佐賀県で産声をあげます。

幼いころから野球に興味を持ち始め、
小学校にあがるころには、
プロ野球中継をテレビにかじりついて見ている様な少年時代を過ごしていました。

そんな彼が、特に夢中になったのは、
赤ヘル黄金時代に一番打者として活躍した高橋慶彦(たかはし・よしひこ)選手。
1970年代後半から80年代にかけて「赤ヘル機動力野球の申し子」と言われ、
3度の盗塁王に輝いた高橋選手の姿をみて、
緒方少年は、いつしか野球選手になって、
強い選手たちと戦いたいという夢を持ち始めます。

中学校を卒業すると、高校野球の強豪校、鳥栖(とす)高校に入学。
プロ野球選手になるべく、緒方は厳しい練習に耐え汗を流します。

人一倍努力を惜しまなかった緒方は、
野球部の練習以外でもひたすらバットを振り続けます。
小雪の降るクリスマスイブの夜に、駅前の街灯の下で
延々と素振りをしていたというエピソードもあるほど、
人知れず、練習に打ち込んできたのです。

しかしこのとき、緒方が学んだのは、単に野球の技術だけではありませんでした。
指導に当たっていた平野国隆(ひらの・くにたか)監督からは、
「感謝」の気持ちを持つことなど、
野球を通して、人間として生きる上での大切なことも教わったのです。

こうして、青春のすべてを野球に費やし、
野球に対しての心構えと妥協のない練習に打ち込んだ日々が、
のちにプロとして活躍していく上での、大きな土台となっていったのです。

佐賀県の鳥栖(とす)高校に入学し、
青春時代のすべてを野球に費やしてきた、緒方孝市。
人知れず練習を重ねた努力が実を結び、
足の速さと打球の強さを武器に、みるみるうちに頭角を現します。

そして迎えた、1986年のドラフト会議。
緒方は、幼いころから憧れていた高橋慶彦(たかはし・よしひこ)選手がいる、
広島東洋カープにドラフト3位で指名され、
見事、プロ野球選手になるという夢をつかんだのです。
後に外野手へ転向しますが、当時は内野手としての入団でした。

この瞬間、彼は一つの目標を打ち立てます。
それは、「足で一番になる」。
盗塁王に輝いた高橋慶彦選手に近づくための大きな目標でした。

そして入団から2年目、当時の山本浩二監督に俊足をかわれ1軍に昇格しますが、
レギュラーに定着することはなく、プロの厳しさを痛感します。

お肉のギフト

そんな彼の身に、さらに悲しい出来事が降りかかります。
それは、母親の死。
突然の悲しみに打ちひしがれた緒方は、
その悲しみを打ち消すかのように、ますます練習に没頭。
これまで以上に練習に打ち込んだ結果、ようやく緒方は、
一つのチャンスをつかみます。
それは、1995年にアキレス腱を断裂した
前田智徳の穴を埋める形で、見事レギュラー入りを果たしたのです。

この一連の出来事を、当時の三村敏之監督は
「緒方の母は緒方を二度生んだ」と表現し、話題になります。
さらに緒方は、1995年から3年連続の盗塁王を獲得。
見事「足で1番になる」という目標を達成したのです。
その盗塁は、「スライディングで加速しているように見える」と多くのファンを熱狂させたのです。

母親の死を乗り越え、レギュラーに定着し、
3年連続で盗塁王に輝いた、緒方孝市。
「走る」、「攻める」、「守る」。この「走・攻・守」全てにおいて
怪我をも恐れない全力プレーのスタイルで、
5年連続でゴールデングラブ賞も獲得します。
大きくチームの勝利に貢献していった反面、その「全力プレー」が
皮肉にもその武器を奪ってしまうことになってしまいます。

1998年6月の阪神戦でのことでした。
甲子園球場の右翼フェンスに激突し、右足首を捻挫してしまい、
盗塁王と言われた全盛期のスピードを失ってしまったのです。

この怪我で緒方は、
「これから、どうやってこの世界で生き残れるだろうか」と
これから先の方向性を大きく変えることを余儀なくされてしまいます。
そして、緒方は「走る」ことではなく、「打つ」、
つまり、長打力に磨きをかける努力を始めたのです。

こうして、怪我に屈することなく、打力に磨きをかけていった、緒方。
全力プレーを貫き通した翌年の99年、ついにFA権を取得することになります。
しかし緒方は、「他球団にいっても、優勝して素直に喜べないと思った」と、
カープに残留することを決意。
強力な選手が次々と他球団に移籍していくなか、
カープ一筋で現役を全うすることを決めたのです。

緒方は、故郷である佐賀県に恩返しすることも忘れていませんでした。
毎年佐賀で少年野球教室を実施し、
野球チームや養護施設などにボールや金属バットをプレゼント。
自らのポケットマネーで50チーム分を用意したこともありました。
カープで戦いながら、緒方は佐賀でも夢を与え続ける存在だったのです。

FA権を行使することなく、カープ一筋を貫くことを決めた、緒方孝市。
人に負けたくない、どうにか成功したい。
その思いだけを胸に、がむしゃらにバットを振り続けました。
常に試合が終わった後は、ユニフォームが真っ黒でありたいと、
怪我と隣り合わせの「全力プレー」で試合に挑みます。

しかし、2007年のことでした。
打率が低迷し、右ひじの手術したときでした。
『現役引退』の文字が頭に浮かび始めたのです。
引退するべきか、もうしばらく野球を続けるべきか。
悩んだ緒方は、鳥栖高校の恩師、平野国隆(ひらの・くにたか)監督に相談します。

すると監督は、
「やれる限りやれ! お前が辞めるなら、オレも監督を辞める!」
と、緒方に激を飛ばしたのです。
この監督の言葉に、一度は引退を決意した緒方でしたが、
思いとどまり、現役を続行することを決めたのです。

こうして、現役を続けながら、2008年からは野手のコーチを兼任。
練習では、誰よりも早く球場入りをし、コーチとして走塁指導に当たる以外は、
若手選手とおなじメニューをこなします。
そして今年の6月、緒方は、尾道しまなみ球場で通算1500本安打達成し、
大きな一つの節目を迎えたのです。

しかし、その直後、緒方は腰痛で戦線離脱してしまいます。
出場回数が減り、「思うように走れなくなり、守れなくなってきた。
そして何より、ユニフォームが汚れなくなった。」
そう感じた緒方は、今シーズンで引退を決意。
23年間、カープ一筋に生きた男は、今月10日の巨人戦で
多くのファンに見送られて、第一線から退いたのです。
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澤穂希
健康維持を美肌維持に、やずやの養生青汁

ほまれ


澤穂希は、1978年に東京都の府中市で生まれます。
5歳から7歳の間は、父親の仕事の関係で、大阪の高槻市に住んでいました。
そのころ、1つ上の兄がクラブチームでサッカーを始めたため、
彼女も母に連れられて一緒に練習会場に行き、いつも見学をしていました。

そこでいつも、兄が楽しそうにボールを追う姿を見るうちに、
「自分も一緒に楽しくボールを蹴ってみたい!」と思うようになります。
すると、ある日のことでした。そのクラブチームの指導者が「一緒にボールを蹴ってみないか?」と彼女に声をかけてきたのです。

そして、生まれて初めて蹴ったボールは、コロコロと転がり見事ゴールが決まったのです。
そのシュートには、その場にいた誰もが驚き、同時に、この一球がサッカーを始めるきっかけになったのです。

それから、兄と一緒に週に1、2度練習に参加していましたが、格的にサッカーを始めたのは、
再び父の仕事の関係で東京に戻ってきた、小学2年の時でした。

府中市にある名門クラブに入団を試みますが、なかなか正式に入団できません。
当時は、女の子、しかもまだ小学2年の子が入団するのは異例中の異例だったのです。
しかし、諦めませんでした。
そして、そんな彼女の思いは、いつしか周囲の人の心を動かし、家族や多くの関係者の理解があり、やっと入団を許されたのです。

それからというもの、サッカー漬けの毎日が始まりました。
練習は週に5日。週末には試合があり、遠征にも出かけました。
学校の友達と遊べないことが寂しいこともありましたが、毎日サッカーができることが楽しくて仕方なかったのです。

しかし、地元のサッカーチームに、女の子はたったひとり。
男子にまざって、日々サッカーの練習に明け暮れていました。

小学校6年生になって間もなくのことでした。
チームの中心としてプレーしていた彼女にとって、思いもしない壁が立ちはだかります。
憧れていた「全日本少年サッカー大会」に、女子は出場できないというのです。
チームのスタッフや母親が力を尽くして、どうにか彼女が全国大会に出場できるように掛け合いますが、結局、そのルールは変わらず、泣く泣く出場を断念することになったのです。

「どうして、女に生まれたんだろう。男だったらよかったのに」。
やり場のない思いを抱えて、落ち込む日々が続きます。
そんな時、東京都内にある女子サッカーチームから、
大会で助っ人に入ってほしいとの依頼が舞い込みます。

最初はあまり乗り気ではなかったものの、母親の勧めもあり、それまでため込んでいた悔しさをサッカーボールに託し、見事優勝を果たします。



やっぱり、サッカーってたのしい!そう思えたこの出来事が、これから先もサッカーを続ける決め手になったのです。

中学に入学すると、日本一の女子サッカー強豪クラブ「ベレーザ」の一員としてプレーするために、その下の組織の門を叩きます。
ところが、そのずば抜けた実力を買われ、
いきなり中学1年で「ベレーザ」に入部することを許され、
さらには、15歳で日本代表デビューを飾り、
17歳の時にはアトランタオリンピックに出場を果たしたのです。

女子サッカー界では、異例の速さの15歳で日本代表デビューを果たし、
世界の舞台に立った、澤穂希ですが、女子サッカー選手のプレーできる環境は、決して恵まれたものではありませんでした。

日本の女子サッカーのトップリーグであるLリーグは、Jリーグとはちがい、実業団という色合いが濃く、選手の多くは企業で仕事をしながらプレーしていました。
また不況のあおりも受け、次々とクラブが廃部に追い込まれていきます。
そして、彼女が所属していた「ベレーザ」もその例外ではありませんでした。
彼女自身は、プロ契約を交わしていましたが、
経営状況の悪化から、シーズンの途中で契約打ち切りを伝えられたのです。

先の見えない不安に襲われ、途方に暮れていたところ、彼女のもとに願ってもない話が舞い込みます。
以前「ベレーザ」でプレーしていたアメリカ人選手から、アメリカでプレーしないかと誘われたのです。

悩んだ末、アメリカ行きを決意します。
最初は、言葉の壁や慣れない土地でのプレーでホームシックになることもありましたが、
それらの苦難を乗り越え、2000年に開幕したアメリカのプロリーグの舞台に立ったのです。

こうして、アメリカでの女子サッカー人気も後押しして、順調な滑り出しを見せたかに見えました。
ところが、その3年後、2003年のことでした。
突然、活動休止が発表されたのです。
こちらも、日本と同様に不況のあおりを受けて運営が立ち行かなくなったのが理由です。

ようやくアメリカでの生活にも慣れていた矢先の出来事でした。
チームの経営不振が原因でプロ契約を打ち切られ、アメリカのプロリーグでプレーしていた、澤穂希ですが、今度はリーグの活動休止が発表され、再び行き場を失ってしまいます。

翌年にはアテネオリンピックのアジア予選が控えているにもかかわらず、
所属チームがない状態では予選に出場すらできません。
最終的には、アメリカのリーグが復活するのを待とうと考えていたところでした。
すると、以前日本で所属していた「ベレーザ」からオファーがあり、
なんとか無事に移籍先が決定したのです。

これまで、どんな時も「日本代表に選ばれること」、
「海外のリーグで活躍すること」と、常に掲げた夢に挑んできました。
そんな彼女が、最後に掲げた夢がありました。
それは、「世界NO1の座」。

しかし、2008年までに3度のワールドカップと2度のオリンピックに出場し、
世界の舞台に立つたびに、世界の壁の高さを痛感します。
そこで彼女は「まず、アジアを制することが重要だ」と強く考えたのです。

こうして挑んだ、2008年の東アジア選手権。
彼女は、代表として念願の初タイトルを獲得したのです。
その結果、FIFAランキングでは過去最高の4位に浮上。
ワールドカップでの優勝も、夢ではなくなったのです。

凛と咲く なでしこジャパン30年目の歓喜と挑戦



そして、挑んだ今年7月に開催されたワールドカップドイツ大会。
次々と勝ち進み、最終戦。
決勝の対戦相手はかつて、自分がプレーした国、アメリカでした。
結果は、PK戦の末に勝利。日本サッカー史上初となるワールドカップ制覇を成し遂げました。

日本代表に選ばれ18年、常に夢に挑み続け、ついに世界NO1の座を勝ち取った、澤穂希。
逆境にも負けず、常に夢を持ち続けることの大切さを感じます。



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