スターの人生 スターの半生
有名人の人生・半生をピックアップ。その人生はどんなものだったのかをご紹介します。
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GRAY グレイ
常に華やかな話題を振りまき、多くのファンを魅了し続けているGLAY。
そんな彼らの歴史の始まりは、1988年までさかのぼります。
GLAYは全員、北海道函館市出身ですが、
最初から、Takuro、Teru、Hisashi、Jiroの4人で活動していたわけではありません。

結成は、TakuroがTeruに声をかけたところから始まります。
憧れのジョン・レノンの影響で、
早くからオリジナル曲の作詞作曲を始めていたTakuroは、
バンドを組もうと別のバンドで活動していたTeruに声をかけます。
二人は、小学校と中学校が同じだったことから、意気投合しすぐにGLAYを結成。

しかし、このとき、まだこのバンドには、
肝心なボーカルがいませんでした。
今でこそ、GLAYのフロントマンとしてボーカルを務めているTeruですが、
実は結成当初、彼はドラムだったのです。

そんなTeruがボーカルになったのは、些細なことがきっかけでした。
早くから、バンドとして成功したいと考えていたTakuroが、
思うようなボーカルに出会えず、途方にくれていたときのことでした。
Teruが、デモテープに自分の声で歌を入れてTakuroの元に持ってきたのです。

Teruは、曲を歌つきで聴いてみたかったという理由で
気軽に吹き込んできたのですが、Takuroはその歌声に衝撃を受けます。
テープから流れてきたのは、まさに彼が求めていた理想の声だったのです。

Takuroは、すぐTeruにボーカルになることをすすめ、
早速ライブ活動をスタートさせたのです。
その後、別のパンクバンドで活動いていたHisashiがギタリストとして参加。
地元のライブハウスを中心にライブを行い、
オリジナルのカセットテープもつくって販売するなど、
高校生でありながらも、積極的に音楽活動を展開していったのです。

地元の北海道函館市で、成功を夢見ながら、
高校生なりに、地道に音楽活動を展開していったGLAY。
高校の卒業を間近に控えたある日、GLAYは大きな決断をします。
高校生バンドにとって、卒業イコール解散という方程式がある中、
彼らだけは違っていました。
卒業と同時に、上京することを決めたのです。
とはいえ、5人いたメンバー全員が東京行きを決めたわけではありませんでした。
それぞれの将来を考えた結果、
Takuro、Teru、Hisashiの3人が上京を決めたのです。

こうして、意気揚々と東京へ進出した3人。
地元ではファンもつき、自信満々だった彼らでしたが、
上京して早々、大きな絶望を味わうことになります。
それは、東京で最初のライブをしたときのことでした。
お客さんが、たった2人しかいなかったのです。
友達も知り合いもほとんどいない土地でのライブだったとはいえ、
その後、上京して2年たっても、お客さんが一人もいないライブもあったのです。

しかし、そこですぐに投げ出してしまうほどの気持で上京していたわけではありません。
「お金を払ってライブに来てくれる人を、楽しませなければならない」
という思いをひとつずつ形にしていった結果、徐々に観客が増えていったのです。

こうして、150人もの観客を集められるようになった彼らに、更なる追い風が吹きます。
それは、ベースのJiroとの出会い。
憧れのライブハウス新宿「ロフト」への出演が決定した前祝のパーティーに、
たまたま参加していたJiro。
1つ年下の彼は、同じく地元函館の高校を卒業し、
バンド活動をするために上京してきていたのです。
ちょうどベースのメンバーが欠けていた彼らは、Jiroに声をかけ、
彼をGLAYのメンバーとして迎え入れます。
こうして4人なったGLAYは、新しく加入したJiroの意見で、
ライブハウスやレコード会社にデモテープを持っていくなど、
さらに積極的に活動を展開していったのです。
最後のメンバーJiroが加入したことで、ついにメンバーがそろったGLAY。
上京して数年。それぞれがアルバイト生活で生活しながらも、
ライブをすれば、客が100人以上入るというところまで成長していました。
そんな彼らに突然、大きなチャンスが訪れます。

1993年10月のことでした。
いつものライブハウスに集まったファンの中に、
見慣れないスーツに身を包んだ金髪の男性が紛れ込んでいました。
その男性こそ、Xジャパンのリーダー、YOSHIKIでした。
YOSHIKIが主催するインディーズレーベル「エクスタシー・レコード」は、
アマチュアバンドにとっては、夢の入り口である憧れのレーベルです。
そんな憧れの人物からライブ終了後、声をかけられたのです。

さらにその誘いは、彼らの想像をはるかに超えたものでした。
まずは、エクスタシーレコードからアルバムを出し、
その上、新しいメジャーレーベル「プラチナム・レコード」の
第一弾アーティストにならないかというのです。

この願ってもないチャンスを手にした彼らは、
デビューが決まったとたんに、アルバイトをやめてしまいます。
こうして、約束どおり、エクスタシーレコードからアルバム『灰とダイヤモンド』を、
さらに「プラチナム・レコード」から、シングル『Rain』をリリースしたのです。

このシングル『Rain』は、YOSHIKIがプロデュースしたということで話題を呼び、
新人としては異例の、15万枚を売り上げます。
しかし、その後数枚のシングルをリリースするも、なかなか大きなヒットが生まれません。
それでも、あきらめずに1年間の試行錯誤を繰りかえし、
満を持して6枚目のシングル『Yes Summerdays』をリリース。
これが、ついに全国的なヒットを生み出したのです。
こうして、翌年1996年2月にリリースしたメジャー第2弾アルバム『Beat Out』は、
チャートで堂々の初登場1位を獲得したのです。

ついに、国民的アーティストへと成長を遂げたGLAY。
1996年11月にリリースした3rdアルバム『Beloved』は、
チャートで初登場1位を獲得し、更に初めてのミリオンを達成します。
その後は、出すシングル出すシングルが、必ず初登場1位を獲得。
さらに、彼らの人気はとどまるところを知らず、
音楽活動以外では、東京-札幌間を結ぶ飛行機の機体に大きくGLAYのメンバーが描かれた、
有名な「Glay Jumbo」(グレイ・ジャンボ)が就航し、話題を呼びます。
それと時を同じくして、彼らはもうひとつ、日本の音楽史に残る事件を起こします。
それこそ、「Makuhari Messe 10th Anniversary Glay Expo’99 Survival」。
なんと20万人を動員するという伝説を残したのです。

このように、数々の記録を打ちたてていった彼らでしたが、
次第に、周囲の「次はいったい何をやるのか」という期待に答えようとするあまり、
記録を塗り替えることが自分たちの使命のように感じ始めます。
そして、1999年の暮れのことでした。栄えある日本レコード大賞の受賞をめぐって、
意見が割れたときのことでした。
レコード大賞を受け取るべきか、受賞を辞退するかで悩んだ彼らが出した答えは、
「レコード大賞を受賞して、解散しよう」というものだったのです。

しかし、その彼らが出した答えは、一瞬にして覆ることになります。
解散の話し合いをしていたときのことでした。
周囲の期待に押しつぶされそうになっていた自分たちに、ふと気づいたのです。
「自分たちは、今年もまたいい曲を作り、いいライブをやっていけばいいだけ」。
そう気づいたことで、彼らは解散の話を白紙に戻します。

こうして、その後もコンスタントにCDをリリースしていったGLAY。
2002年秋には、中国を訪問し大規模な無料ライブを行い、中国でもその人気を示しました。
そして、2010年10月、彼らは自ら立ち上げた新レーベル「loversoul music & associates」から、
3年9ヶ月ぶりのアルバム『GLAY』をリリースしたのです。                                
最新アルバム『GLAY』について、TAKUROは
「キラキラして前だけ向いていたデビューの頃と同じように、
この作品は2度目のデビュー・アルバムという気持ち」と語っています。
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浜田省吾

The Best of Shogo Hamada vol.3 The Last Weekend



浜田省吾は1952年、広島県竹原市で生まれました。
警察官だった父親の転勤の為、
幾度となく引越を繰り返す少年時代を送っています。
そんな環境の影響からか、浜田少年はあまり人と打ち解ける事のない少年時代を送ったようです。

そんな少年が音楽に目覚めたのは、7歳年上の姉が大きな役割を果たしました。
エルヴィス・プレスリーが好きだった姉の影響で、8歳の頃にはラジオから流れるアメリカンポップスを聴き始めていたのです。

そして、10歳のとき、ある衝撃が訪れます。「今まで自分が聞いていた音楽とは全く違う!」
そんな驚きの音が幼い彼の心を掴みます。広島の片田舎の少年がラジオからキャッチした曲、
それがビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」でした。

それからはビートルズにのめり込む日々が始まります。
母や姉の買う雑誌に少しでもビートルズの記事があれば全て切り抜き、
近所にビートルズのレコードを持っている人がいれば頼み込んで、
家の外から聴けるようにレコードをかけてもらった程・・・

初めて買ったレコードもビートルズでした。
中学一年生の時にお小遣いで買ったのは
「チケット・トゥ・ライド」。
ビートルズで音楽にのめり込んだ浜田省吾がレコードの次に手に入れたのは、当然ギターでした。
中学2年の時、姉が二十歳の誕生日プレゼントにと買ってもらったギターを
半ば奪い取るように自分の物にしてしまったのです。
この姉のギターを、ジョン・レノンが愛用していたものをまねて改造、
遂に、ギターを弾き始めたのです。

The History of Shogo Hamada―Since 1975





その後、高校時代には学生運動に影響を受けつつもバンドを結成。
野球部や詩の同人誌を作りなど、かなり活動的な高校時代を送ります。
その為か、勉強の方は、はかどりませんでした。
結局1年浪人して神奈川の大学へ進学する事になったのです。
そして、この大学時代に広島出身の仲間たちが集まって結成したのが、
後にプロデビューする事になるバンド、「愛奴(あいど)」でした。

今でこそシンガーソングライターとしてギターのイメージが強い浜田省吾ですが、
この時代の彼の担当はドラム。
そして愛奴の最初のプロとしてのステージは、
同郷の英雄、吉田拓郎のバックバンドとしてでした。

それまで、デパートの屋上くらいでしか演奏をしていなかったバンドが
いきなりの超満員の大ホールでの演奏となりました。
このバックバンドで積んだ経験を元に愛奴はデビュー、
ここから音楽人生が本格的にスタートしたのです。
1975年、浜田省吾22歳での事でした。
しかし、バンド活動の中で、浜田は次第に違和感を覚えるようになります。

元々、メンバーにドラムがいなかったからと始めたドラム、
決して上手いという訳でもありませんでした。
さらに全員が曲を書くというバンドメンバー達の音楽性の食い違い。
そして何より、曲を書く事に彼の関心は向いていったのです。
そしてアルバムデビューからわずか5ヶ月程で愛奴を脱退。
翌1976年、ソロデビューを果たすことになったのです。

しかし、そのデビューは決して華やかなものではありませんでした。
デビューアルバムの初回発注はわずか3000枚。
そして、彼の売れない時期は、実に4年、アルバム4枚を出しても鳴かず飛ばずの日々が続いたのでした。

そんな状態を打開したのはなんと「カップヌードル」。
CMタイアップの話が来たのです。今でこそ一流CMのイメージが強いカップヌードルですが、
当時はそれほどでもなく、あまり乗り気ではありませんでした。
しかし、その肩の力を抜いたのが幸いしたのか、
このCM曲「風を感じて」がヒットしたことにより、環境は一変します。
ソロデビューから4年、ようやく浜田省吾の音楽が世間に認められ始めた瞬間でした。

その後の彼の挑戦は周囲の驚きでした。それは1982年の武道館ライブ。

今でこそ武道館でデビューなどと言うバンドもありますが、
武道館といえばミュージシャンの最高到達点とも言える場所。
そんな所に、ヒット曲と言えば「風を感じて」ただ1曲、
地方のライブに至っては満員にならない事もあった彼の挑戦に注目が集まりました。

しかし、レコードのセールスが伸び悩みながらも、
着実にライブを重ね、その支持を重ね、チケットは即日完売という結果となったのです。

これを機に、初の野外イベント、核兵器反対や、チャリティーのイベントなどにも出演。
その活動を広げつつ1986年にリリースしたアルバム「J.BOY」で
ついにチャート1位を記録したのでした。

J.BOY





ソロデビューから10年、メディアでの露出が極端に少なく、あくまで音楽だけで挑戦を続けて来た男の長い道のりを経て遂に到達した頂点でした。

そして、2006年には、ソロデビュー30周年を迎えた浜田省吾。
初めてとなるベストアルバムをリリースし、2年間、全国53カ所、87公演というホールツアーを敢行。今なお、アルバムリリースとライブを中心とした活動で、多くの人の心をつかんでいます

大黒麻季

ベスト オブ ベスト~ALL Singles Collection



大黒摩季は1969年12月31日うまれ。
大晦日の日、札幌の製パン業を営む家に生まれた

3歳の頃からピアノを習ってた大黒麻季でしたが、好んでやったわけではなく母が「女の子が生まれたらピアノを習わせたい」という思いで習わせました。
実家が商売をしていたこともあり、彼女の母親と祖母は、いつも忙しく働いていました。
商売ですから、疲れたもたまっていました。顔にもその疲れは出ていたようです。

しかし、幼い彼女には、手伝うことも出来ず、
がんばっている二人に「がんばれ」ということもなかなかいえませんでした。

あるとき、娘である大黒麻季が歌を歌うと、どんなに疲れているときでも
母と祖母は、笑顔で一生懸命聴いてくれ、拍手までしてくれました。
その姿を見て、幼い彼女は「ああ、よかった」と喜んでいたのです。
疲れた二人の元気そうな笑顔を取り戻す方法が、歌だったのです。

なかなか言葉では伝えきることの出来ない想いを歌に乗せて伝える・・・
後にシンガーソングライターとして成功する大黒摩季のスタート地点は、
そんな家族へのやさしい想いだったのです。

こうして、幼い頃から音楽に触れていた大黒摩季は、物心ついたときには夢が「歌手になること」になっていました。
この夢の背景には、彼女の家族に対する想いがあったのです。

中学2年生になるとバンド活動を開始しました。、
レベッカのコピーなどを歌っていました。
さらに、15歳の頃には音楽大学を目指し始め、本格的にオペラの勉強を始めています。

しかし、この勉強は彼女にとって堅苦し過ぎるものでした。
クラシックに比べてロックは劣っていると言う先生に反発を覚えて
声楽のレッスンの後は、まっしぐらにバンドの練習に駆けつけていました。

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そんな思いの中、彼女は初めてバンドでオーディションに参加しました。
このオーディションの結果は散々なものでした。
お客さんからは全く反応はなく、拍手ひとつ起きませんでした。

聴いてくれているお客さんに全く受け入れられなかった。今まで自分が歌っていたのは、自己満足だけの「自己中の歌」だったのではないか。
そんな現実を目の当たりにして、とても落ち込んだ大黒麻季でした。

そして、どうしたら歌を聴いてもらえるのかという、歌手の出発点ともいえる問題に直面し、大きな決断をしました。



単身、上京することにしたのです。誰一人知り合いのいない所で、一からスタートしようと考えたのでした。

「歌のプロになる為に東京に行く!」高校2年の時、両親にその思いを告げましたが、高校だけは出てほしいという母親の説得を受け、高校卒業後、18歳の1988年6月1日、故郷・札幌から単身上京しました。

その後、スーパーのバイトなどをしながらライブハウスをまわり、オーディションを受けはじめ
わずか1年後には、いくつかのオーディションに合格しました。

ある大手レコード会社からは、「すぐデビューしましょう」と誘われ、大満足しつつ、
自信をつけ、いい気分でした。
しかし、もうひとつ合格していたオーディション後の面接で、耳を疑うような言葉を聴きました。

それは、大手レコード会社とは比べものにならない、ワンフロアだけの小さな音楽事務所。
小さな古びたソファに座って受けた言葉は、「君に才能なんて全然ないと思うよ」
「よかったら、うちでコーラスでもやりながら勉強したらどう?」

一気に天国から地獄へ堕ちるような容赦ない言葉でした。しばし放心状態に陥る程の衝撃でし
た。
そして、そこで、面接官である社長を、始め事務所スタッフが一緒になって音楽隊の
は、ギターを持ち寄り、彼女の前で弾き始めたのでした。
その姿を見て大黒麻季は、なんと、大手レコード会社を蹴ってこの事務所と契約することを決意しました。
「この人たちは、口は果てしなく悪いけど、絶対純粋だ」厳しい言葉に逆に闘志を燃やし、小さな事務所から、プロへの第一歩をスタートさせました。

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こうして、上京して1年で、オーディションに合格し、所属事務所が決定した大黒摩季でしたが、実際のデビューまでには長い年月でした。

彼女に用意されたのはコーラスの仕事のみで、自分の歌を歌えず、人の後ろでばかり歌うコーラ
スは、しっくりこないものでした。

自分で作った作品を事務所の社長に持ち込み続けていましたが、返ってくるのは冷たい否定の言
葉ばかりで、この状態が4年続きました。

そして、どうとう我慢が限界に達し「私はコーラスをやりにきたんじゃない」
と、啖呵を切ってアメリカに旅立ちました。

知り合いのミュージシャンなどを訪ねながらライブハウスを巡って、改めて自分と音楽を見つめ直す旅でした。ところが、2ヶ月がすぎた頃に連絡先を教えていないはずの事務所から、突然、「デビューの用意があるから帰ってこい」とうれしい知らせが入ってきたのでした。

出国前に知り合いのディレクターに預けていた曲が評判を呼び、デビューが決定したのでした。

狐につままれたように、半信半疑で帰国し、レコーディング。
デビュー曲は、「STOP MOTION」でした。


しかし、このデビューシングルはわずか1万枚のプレスでした。
このとき、デビューすれば売れると思っていた彼女は再度打ちのめされました。

ところが、また、チャンスはやってきました。
急遽頼まれたCM用に作った曲をリリースした所、CMと共に人気を集め、気づけばなんとミリオンセラー。
なんと110万枚という大ヒットでした。
セカンドシングル「DA・KA・RA」で
幼い頃からの夢を十分すぎる形で叶えた瞬間だったと思います

その後、ら、ら、ら 熱くなれなど数々の曲を出しましたが、子宮の病気で活動を休止しています。

LA.LA.LA






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